世界的鉄板焼チェーン「Benihana of Tokyo(ベニハナ・オブ・トーキョー)」のCEOとして知られる青木恵子さん。
ニューヨーク社交界でもっとも活躍されている日本人女性としても有名です。
青木恵子さんの成功の裏には、興味深い生い立ちがあります。
華やかな経歴を持つ彼女ですが、その原点にはどんな生い立ちがあるのでしょうか?
この記事では、家族背景や学生時代、海外での挑戦、そして成功までの軌跡を詳しくご紹介します。
青木恵子の家族背景と幼少期
青木恵子さん(旧姓:小野)は1965年、東京都で建設省の国家公務員の家庭に生まれました。
厳格な父親ではあったようですが、一般的な家庭で温かく育ちました。
東京都出身で、建設省の国家公務員の家庭に生まれた。ジーンズのベルボトムの裾を引きずったままでは家に上げてもらえない厳しい父親だったが、「週末はデパートの屋上の遊園地に連れていってくれたりするごく平凡な家庭で普通に育った」という。
出典:JB press
とはいえ、のちにハワイ大学へ3年間の留学を実現していることからも、当時としてはかなり「裕福」な家庭の子女だった可能性が高いです。
1980年当時、海外留学は現在のように一般的ではなく、費用も非常に高額でした。
そのため、青木恵子さんの家庭は「中流以上〜裕福層」といえる経済的基盤があったと考えられますね。
そして、幼少期の青木恵子さんは、「夢見る夢子さん」と呼ばれるほど夢見がちな性格だったそうです。
この空想的な性格が、後の青木恵子さんの大胆な挑戦につながったのかもしれません。
学生時代の青木恵子:ミス東京からハワイ留学へ

青木恵子さんの学生時代は、彼女の将来を予感させるような出来事に満ちていました。
高校時代は、都立深川高校に通い、バスケットボール部に所属していました。
ごく普通の活発な学生生活を送っていたようです。
その後は、山脇学園短期大学に進学。
19歳のときに「ミス東京」に選ばれ、、注目を集めました。
当時のエピソードをご自身で語られており、実はこのコンテストは、友人が推薦してくださったそうです。
この受賞をきっかけに、テレビやラジオなどの芸能活動にも2~3年ほど取り組みました。
しかし、誰かが作った台本や枠組みの中で動くよりも、「自分で企画して、自分で何かを生み出すほうが好き」と感じるようになります。
そこで青木恵子さんは、芸能の道から一転し、海外留学という新たな夢へと踏み出していきました。
まさに、自分で道を切り開く方へシフトしていった背景がとてもよくわかるエピソードですね。
その後、短大卒業を経てハワイ大学に3年間留学。
ハワイを選んだ理由は、現地に遠い親戚が住んでいたことが大きく、娘を海外へ送り出す両親にとっても安心材料となりました。
ハワイ大学の中の英語学校で学びながら国際感覚を養い、さらにサンフランシスコにも滞在するなど、海外経験を深めていきました。

またこのハワイ時代、青木恵子さんは多くのセレブリティと自然な形で知り合っていきます。
俳優や女優、野球選手など、そうそうたる面々と交流する中で、のちに毛皮ビジネスを始めた際には、当時の知り合いが顧客の中心となったとも語っています。
本人は「人脈を作ろうと思っていたわけではない」と語っていますが、結果として大きな財産となりました。
さらに、不思議な縁として、親戚がヒルトン・ハワイアン・ビレッジ内で宝石販売をしており、そのすぐ隣にはなんと「Benihana」がありました。
当時はその前を何気なく通り過ぎていた場所が、後に人生の大きな転機となる“出会いの舞台”だったとは、まさに運命的なエピソードです。
青木恵子の海外進出:ハワイ留学からNY成功まで

青木恵子さんの人生は、短大卒業後に大きく動き出します。
在学中に、ニューヨーク在住の日本人ビジネスマンと結婚しグリーンカードを取得。
しかし、このときは1年半で離婚しています。
そのまま日本に帰らず、毛皮店でのアルバイトを経て、日本人富裕層向けの洋服店を経営。
米国産毛皮の価格差に注目し、日本人富裕層向けにビジネスを展開、3日間で5000万円の売上を記録するほどの成功を収めました。
NYのセレブマダムたちの交流の場だった“主婦の友”の理事に気に入られて五番街にオフィスを借りたんです。初めて入った依頼が“日本で毛皮を売ってくれないか”というものでした。
出典:NEWSポストセブン
毛皮ビジネスで成功した青木恵子さんでしたが、「このブームは長く続かない」と冷静に見つめ、次の一手を常に模索していました。
そんなある日、テレビでマドンナのツアーを見ていた際、ジャン・ポール・ゴルチエがデザインしたコーンブラ姿に強く惹かれたといいます。
「さすがマドンナ、セクシー路線で今度は攻めたのね……と見ていた中で、私も閃いたんです。“次は下着だ!”と」
出典:NEWSポストセブン
当時の日本では、可愛い系が主流だった下着市場に「盛る下着」という視点を持ち込み、アメリカで人気だったワンダーブラに目をつけました。
「これからはカタログ通販の時代」と先読みし、日本市場に導入したところ、大ヒットに。
毛皮と下着、異なるジャンルで二度の成功を収め、NYのビジネス界でも注目される存在となっていきました。
そして1994年、海外にBenihanaが進出するようになってから、コンサルタントとして知り合った、創業者・ロッキー青木氏と、2001年に結婚。
2008年、ロッキー氏の死後は彼の遺志を継ぎ、Benihana of TokyoのCEOとして事業を継承しました。
レストランチェーンのCEOとして世界中を飛び回りながら、ニューヨーク社交界でもっとも活躍されている日本人女性として名を馳せました。
まとめ
厳格な家庭で育ちながらも、自由な発想と夢見る力を大切にしてきた青木恵子さん。
ミス東京という華やかな肩書きや、国際ビジネスでの成功、そしてBenihanaという世界的ブランドの継承と発展。
どのステージにおいても、柔軟な対応力と挑戦心を武器に、自らの道を切り開いてきました。
彼女の生い立ちは、夢を持ち続けることの大切さと、チャンスを活かす勇気の重要性を教えてくれます。
青木恵子さんの今後の活躍にも、引き続き注目していきたいですね。
それでは、ありがとうございました!
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